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「ゆかりは古し貫前神社」

「ゆかりは古し貫前神社」

大人の「上毛かるた」(37)富岡市

読み札(ゆ)・「ゆかりは古し貫前(ぬきさき)神社」



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 『一之宮貫前神社』(いちのみや ぬきさきじんじゃ)
は群馬県富岡市一ノ宮に鎮座する、
1400年の歴史を持つお社です。

  御祭神は「経津主神」(ふつぬしのかみ)と
「姫大神」(ひめおおかみ)で、
現在の社殿は3代将軍徳川家光公の命によって建てられました。
江戸時代初期の漆塗りで極彩色の社殿は
国の重要文化財に指定されています


  また、年間祭儀が71回あり
御戸開祭(みとびらきさい)や鹿占神事(しかうらしんじ)など
古くからの祭儀が数多く残るのが特徴です。


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 ● 経津主神(ふつぬしのかみ)

 経津主神は『日本書紀』などの国譲りの場面で神名がみえる、
葦原中国(あしはらのなかつくに:日本の異称)
平定に功績があったとされています。

 ●比売大神(ひめおおかみ)

  比売大神は正確な神名も祀られた由緒も伝わっていませんが、
一説には綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神と云われています

 貫前神社の創建は安閑天皇元年(531)、
物部姓磯部氏が、氏神である経津主神の分霊を勧請して
鷺宮に奉祀したのが始まりと伝えられています。


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 歴代領主や周辺の大名、
為政者からも信仰され、
特に上杉氏や小田原北条、武田氏は篤く崇敬され、
武田氏にいたっては社殿の造営費用を
賄ったとされています。


 江戸時代に入ると、
幕府から庇護され社領の寄進や社殿の造営などが行われ、
明治時代には国幣中社、太平洋戦争後は本庁別表神社となっています。


 貫前神社の境内は
「下り宮」あるいは「下り参りの宮」と呼ばれる形式で
参道を一旦登った後、総門から下った所に
社殿が配置されている独特なものです。


 又、貫前神社社殿は寛永12年(1635)、
3代将軍徳川家光が再建したものを
5代将軍綱吉が改修したもので本殿 、拝殿 、
楼門が国指定重要文化財にも指定されています。


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 無事かえる、というのがあります
文字通りの「カエル」です
縁結びのアイテムとともに、
ここ貫前神社の人気のお土産のひとつです

 
 ただのこじつけではなく、
ちゃんと由来もあります。

 無事カエルの由来になっているのが、
総門の脇にある大きなタブの木です。
この木に生えたサルノコシカケがカエルの形をしており、
それを人々が「勝ちがえる」と呼び始めた
のが始まりでした。


 第二次世界大戦時下の昭和18年、
貫前神社の総門をくぐってすぐ右側のタブの木に
「かえる」の形をした茸(サルノコシカケ)が
出現したのだそうです。

 折りしも貫前神社には出兵される方々や
そのご家族のお参りが多数あり、
「勝ってかえる(帰る)」だ
「勝ちがえる(帰る)」
だと云って縁起物のようになったという事です。


 この「勝ちがえる」が時代を経て、
「無事かえる」という交通事故のお守りになったようです。


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 高度経済成長の時代に、
交通事故が多発して、「交通戦争」までと呼ばれる時代がありました
なおかつ、群馬県は、人口比でも運転免許保有率、日本一に県です
それは裏を返せば、日本一、公共交通機関が不便で、
移動は自家用車に頼らざるをえないという、
事情によるものです


 事実、18歳以上の者が何人いるかは、
庭先の車の数を数えれば、一目遼然というほど、
免許も車も普及しています。
群馬では、一人一台が当たり前なのです・・・
農家では、作業用の軽トラックなどもありますので、
当然、その数値を上回ります


 ということは、公共交通機関が不十分で
農家の軒数が多く、なによりも不便がつきまとう
「県」ということになってしまいますが・・
あたらずとも、遠からずです!


 一家に一個どころか、
車一台にひとつといえるほど、
大流行した「カエル」君でした


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 調べてみるとこの「カエル」くんは
全国で定着しているものや売り出し中のものが、
いくつものもあります。
江戸時代には火事が多かったため、
当時から庶民に人気のかえるくんもいます。


 麻布十番にある、
十番稲荷神社(じゅうばんいなりじんじゃ)にも
古来のゆかりとともに、「カエル」のお守りが有ります


 ここにはもともと
末広神社(旧坂下町鎮座)と、竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)、
の二つのお社があったところです。
 ともに、火事で焼失したために、合併して、
社名を十番稲荷神社と改称し、
平成9年3月29日、現在の社殿に建て替えられたものです。

 以下はそのゆかりの全文です

 
 江戸時代 文政4年(1821)7月2日、
麻布古川あたりより始まった大火で、このあたりが
殆ど焼けてしまった時、なぜか備中成羽(今の岡山県西部)の領主、
山崎主税助(やまさきちからのすけ)
の屋敷のみが類焼を免れました。


 これは邸内の池の大かえるが、
水を吹きかけて猛火を退けたからであると言われ、
山崎家に御札を求める人々があとを断ちませんでした。

 そこで山崎家では文政4年の9月より、
「上」(じょう)という一字が書かれた御札を
万人に授けるようになりました。
この御札は「上の字様」と称され、
防火・火傷のお守りとして信仰を集めました。


 その後「上の字様」は末広神社(当社の前の社名)
を通して授与されるようになりましたが、
戦後中断してしまいました。
しかし、「上の字様」の復活を願う声は多く、
昭和50年8月より「かえるのお守り」として復活し、
かえるの石像も奉納されました。


 近年では、防火・火傷のお守りとしてだけではなく、
「かえる」の語音から旅行や
入院の際に無事かえる、元気でかえる、
あるいは、遺失物がかえる、若がえる等の
お守りとしても貴ばれております。


 その後、「上の字様」も神社に伝わる史料を基に、
ほぼそのままの姿で復刻し防火・火傷除けに諸災難除けの御利益も加わった
「上の字御守」として平成20年元旦より授与しております。


 かつて広さが約五百坪(1650平方メートル)
あった池はがま池と称され、四面が深い樹林に囲まれ、
いかなる日照りにも涸れたことがなかったと言われています。

 がま池の現住所は港区元麻布で、
現在では大部分が埋め立てられ、
わずかにその一部を残すのみになってしまいました。
(マンションの敷地内の為、一般には公開されておりません。
住民のご迷惑にもなりますので見学はご遠慮下さい)。


 以上、庶民のカエル信仰のお話でした。


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