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「分福茶釜の茂林寺(もりんじ)」

「分福茶釜の茂林寺(もりんじ)」

大人の「上毛かるた」(28)館林市

読み札(ふ)・「分福(ぶんぶく)茶釜の茂林寺(もりんじ)」



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 江戸時代の赤本や絵本で、
茶釜から顔や手足を出した狸の姿や、
傘を持って綱渡りをする姿が紹介され、
そのイメージが広範囲に定着しすぎて、
タヌキの化身の代名詞になりましたが、
もともとはタヌキの恩返しをテーマにしたものです。


 そのルーツは
群馬県館林市の茂林寺に伝わる伝説で、
茂林寺には現在も狸が化けたとされる茶釜が伝わっています


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 茂林寺にある茶釜は、
1394年から1428年の間に住職であった守鶴が愛用した茶釜で、
一度水を入れると、一昼夜汲み続けても
水がなくならないという伝説が伝えられています。


「分福」という名の由来についても諸説あります。

 この茶釜は
いくつもの良い力を持っていますが、
中でも福を分ける力が特に強くかったことに由来し、
「福を分ける茶釜」という意味から分福茶釜と
呼ばれるようになったという説や
水を入れると突然「ぶくぶく」と沸騰することから
「ぶんぶく」となったのではないかという説もあり、
どれが本当かは、いまだに
はっきりとしていません。


 また分福茶釜の伝説は日本全国にあり、
地方ごとにさまざまなエピソードが有るようです。
そのうちの代表格を2つほど紹介したいと思います


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 まずは地元・茂林寺に伝わる伝説から紹介を始めます

 寺伝によると、
開山大林正通に従って、
伊香保から館林に来た守鶴は、
代々の住職に仕えました。


 元亀元年(1570)、
七世月舟正初の代に茂林寺で千人法会が催された際、
大勢の来客を賄う湯釜が必要となりました。
 その時、守鶴は一夜のうちに、
どこからか一つの茶釜を持ってきて、茶堂に備えました。
ところが、この茶釜は不思議なことに
いくら湯を汲んでも尽きることがありませんでした。


 守鶴は、自らこの茶釜を、
福を分け与える「紫金銅分福茶釜」と名付け、
この茶釜の湯で喉を潤す者は、
開運出世・寿命長久等の、
八つの功徳に授かると言いました。


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 その後、
守鶴は十世天南正青の代に、
熟睡していている間に手足に毛が生え、
尾が付いた狢(狸の説もある)の正体を現わしてしまいます。

 
 これ以上、
茂林寺にはいられないと悟った守鶴は、
名残を惜しみ、人々に源平屋島の合戦と、
釈迦の説法の二場面を再現して見せます。

 人々が感涙にむせぶ中、
守鶴は狢の姿となり、飛び去りました。
時は天正十五年(一五八七)二月二十八日。
守鵜が開山大林正通と小庵を結んでから
百六十一年の月日が経っていました。


 後にこの茂林寺の伝説は、
明治・大正期の作家、巌谷小波氏によって
お伽噺「文福茶釜」として出版され、
茶釜から顔や手足を出して綱渡りする狸の姿が、
広く世に知られる事になりました。


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 正法寺(しょうぼうじ)は、
岩手県奥州市にある曹洞宗の寺院です。
1990年(平成2年)9月11日には、
本堂などが国の重要文化財に指定されました。
曹洞宗三本山の一つで、
今でも修行僧が厳しい修行を行っていることでも有名です


 この正法寺の七不思議のひとつに、
茂林寺ともかかわりのある分福茶釜の伝説が登場します。
こちらも続けて紹介します


 ここの茶釜は
文化文政の時代に作られたものと聞いています。


 正法寺では六度も火災にあった寺ですが、
火事の度にもう釜も焼けてしまっただろうと、
誰もが思い込んでいると数日後には
何処からともなくヒョッコリと現れるので、
人々は驚くばかりであったそうです。


 またこんな可笑しな話もあります。
昔、この茶釜はあちらこちらへと移動するので、
太い鎖で本堂の隅につながれていましたが、
ある時、寺が大火災となってしまいました。


 本堂は瞬く間に火の海となり、
鎖でつながれていた釜は熱くて熱くて仕方ありません。
逃げるに逃げられずに、
あまりの熱さに釜の蓋だけが遠くに飛んでいったとのことです。


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 どこまで飛んでいったかというと、
群馬県にある茂林寺様まで飛んでいったということで、
それ以来、正法寺の茶釜は蓋なしになってしまったそうです。


 その後、茶釜は
落ち着いたようでどこかへ移動することもなくなり、
鎖も外され、現在は宝物庫の中でちょこんと
座布団の上に座っています。


 『文福茶釜』という名の由来は、
度々の火災において難を逃れた知恵(文)と、
どんなに大勢の茶会を開いても、 
釜の湯が切れることがなく、
ふつふつと湯が湧き出てきたという(福)から、
『文福茶釜』と名付けられたと言われています。

 以上が正法寺の七不思議一つ
『文福茶釜』のお話でした。




 次も文福茶釜伝説が残る
米沢市南原横堀町の常慶院(じょうけいいん)です。
 米沢藩の重臣市川家の菩提寺で、
市川家と共に信州高井郡(長野県下水内郡栄村)
から米沢に移ってきた曹洞宗の寺院です。


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 山号は金華山。
上杉鷹山の藩政改革を補佐した竹俣当綱の墓や、
一刀流の達人、吉田一夢(いちむ)の墓があることでも有名です。

 「きつねのくれた文福茶釜 」


 さて、この常慶院には
きつねのくれた文福茶釜と伝えられる珍しい茶釜があります。
鉄製の古い釜で蓋はなく、代わりに木の蓋の上に石
(幻術が解け鉄蓋から石にもどったものと伝えられる)が置かれています。


 この茶釜のいわれは次のとおりです。


 第9世の本悦和尚の時、
南原の糠山に住む弥八郎狐が来て話すには、
「このたび、位をもらいに京都に登ることになったので、
化け方を書いた巻物を預けたい。
どんな者が来ても渡さないでほしい」と頼みました。 


 和尚はこころよく巻物を預かりましたが、
その後、悪狐が巻物をねらい、旅人や壇徒総代だんとそうだいの
市川家の家来等に化けて押し寄せてきました。
和尚は狐との約束を守り、
巻物を引き出しにしまって渡しませんでした。


 数日して、弥八郎狐が京から帰ってきて、
巻物を守ってくれたことを大変喜んで、
土産にと古い茶釜を一つ和尚に渡しました。
さらに、お礼にと
「今晩、釈迦如来の説法をお見せしたい。
ただし、幻術なので信仰して拝んではいけない」
と申し出ました。


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 その夜、和尚が糠山に行くと、
山から虹の橋がかかり、
その上を弥八郎狐が茶釜を持って渡り、
山の上には釈迦如来や大勢の仏様の姿が現われました。
 和尚はその姿の有難さに思わず合掌し、お経を唱えると、
突然雷が鳴りひびき、
仏様や虹の橋が消えあたりは真っ暗になりました。


 しばらくすると夜が明け、
和尚は野原の中にいることに気が付き、
側には蓋のない茶釜と石があったそうです。


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