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現代小説 更新中

「天下の義人、茂左衛門」

「天下の義人、茂左衛門」

大人の「上毛かるた」(19)利根郡・月夜野町

読み札(て)・「天下の義人、茂左衛門(もざえもん)」



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 昔はなぁ。百姓は生かさず殺さずって言ってなぁ、
獲れた物の半分も年貢っちゅう今の税金でお城に、
持っていかれてしまったんだと。


 百姓は残った半分の作物で鍬や鎌を買ったり、
食う物、着る物なんかの暮らしていく全部をまかなっていたんだと。


 この村は寒くてなぁ、
米が獲れるのは赤羽村や中居村、今井村くれえのもので、
たいげえの村は粟や稗を作ってやっと暮らしていたんだと。


 おまけにちょくちょく浅間山がはねて灰を降らすもんで、
作物の取れねえ年もあったんだと。
そんな年は山の栗やどんぐりやわらびの根っこを食って
飢えをしのいでいたんだと。
米が食えるのは、
お盆か正月か死ぬ時くれのものだったんだと。


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 国の一番えらい将軍様は
国中の殿様に年貢は、百姓六分で殿様四分とせよとおふれを出して
何とか百姓を救おうと考えたんだと。


 ところがこの村々を治めていた真田の殿様は
血も涙もねえ恐ろしい殿様で、
今だって暮らすのにやっとだっちゅうのに、さらに年貢を高くして
百姓四分に殿様六分とすると村々におふれを出したんだと。


 取立ても厳しく、
年貢の治められねえ百姓は、
年寄も子供も家中みんな役人に縛られられて
大笹の登城の上り口の関所裏にある水牢に入れられたんだと。
冬の寒い水牢で胸のあたりまで水がたまるんだと。


 だんだん水が増えて来ると
お父とお母が子供を抱き上げて、水に漬けねえようにしたんだと。
子供の泣く声が一晩中水牢から聞こえておやげなかったと、
関所の役人の兵馬ちゅう人が、日記に書いて今も残してあるそうだ。


 百姓の中に飢え死ぬ者がつぎつぎに出て来たんだと。


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 「このままでは、百姓はみんな死んでしまう何とかしなければ。」
と、ちいせえ村の名主の茂左衛門さまが将軍様に
訴えようと和尚さんに相談したんだと。


 「そんな事をしたら、
たとえおまえが正しくても家中みんなはりつけになるぞ。」
と村の和尚さんに止められたんだけんども、
茂左衛門さまの心は決まっていたんだと。


 茂左衛門さまは村の和尚さんのつてを使って、わからないように
江戸へ行ったんだと。
上野寛永寺の和尚さんの手助けをもらい、やっと
将軍様に村の苦しみを訴えたんだと。


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 将軍様は、さっそくお庭番という忍者を送り込み、
真田の殿様を調べさせたんだと。


 真田の殿様は、茂左衛門さまが訴えた事を知り、
手引きをしてくれた村の和尚さんを生き埋めにして、
首を竹ののこぎりで切って殺しちまったんだと。


 将軍様のお庭番にも
真田の忍者を差し向けて秘密がばれないように
殺させようとしたんだと。
お庭番達は真田の忍者にいっぺえ殺されたけれども、
とうとう真田の殿様の悪事を調べあげて、将軍様に報告したんだと。


 将軍様は真田の殿様を江戸で裁判にかけて、
真田のお城の殿様と侍たちを全員辞めさせたんだと。


 そうしてやっと、村々から厳しい年貢の取り立てがなくなったんだと。
だけど、将軍様に訴えた者は全員磔にするちゅう昔の決まりで、
茂左衛門さまの家族は、年寄も子供もみんなはりつけちゅう事に
なったんだと。


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 茂左衛門さまと家族は、生まれた村がよく見える故郷の坂の上で
はりつけになり死んだんだと。
村の衆は、そこに地蔵様を作り茂左衛門さまと家族に、
線香を供え祭ったんだと。
今も、地蔵様に線香の煙か絶える事はねえんだと。


 それからなぁ。そこの坂を村の衆ははりつけ坂と
呼ふようになったんだと。


 真田の殿様が年貢を取る時に使ったますは、真田ますといって、
一升ますが二合もでっかくなっているんだと。
またなぁ、土地の面積を測る棒は、普通の棒より二十センチも三十センチも
短くなっているんだと。
今も、高崎の群馬の森の資料館に飾ってあるんだよ




 「歴史と小説ちゅうのは、うんと違うちゅう話だ。
たまにやぁ真田道を歩いて、沼田へでも行って見るべえかな・・・」


 江戸時代がはじまった頃。沼田は信州の真田氏に支配されていた。
「真田道」というのは沼田市から、信州の真田の里にいたる街道のことだ。


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 磔茂左衛門こと「杉木左衛門」は、1681年。
沼田城主の真田氏の悪政を直訴したため、磔にされた上野国(群馬県)の義民です。


1662年。沼田藩主、真田信利の悪政が始まる。
1680年。大飢饉が発生して、経済状況がより悪化する。
1681年。沼田領77村の農民のため、直訴を決意。
大老の酒井忠清を訪ねるが門前払いにあう。


 茂左衛門は知恵をめぐらす。
輪王寺の紋箱に入れた訴状をわざと茶屋に置き忘れ、茶屋の主人に届けさせる。
主人は将軍徳川綱吉に訴状を届け、沼田藩主の真田信利は改易となった。
 
 ※改易(かいえき)とは
江戸時代に侍に科した罰で、身分を平民に落とし家禄(かろく)・屋敷を没収するもの。
切腹より軽く、蟄居(ちっきょ)より重い。


 士農工商の江戸時代。百姓たちは、高い年貢や労役の重い負担に耐えていた。
幕府や藩が彼らの生産や暮らしを損なう時は、領主に対して、村を単位に要求を掲げ、
しばしば直接的な行動を起こした。
これが百姓一揆だ。


 江戸時代における百姓一揆は、3000件以上も確認されている。
磔茂左衛門や下総の佐倉惣五郎のように、一揆の代表者が義民と呼ばれることも多かった。


 1732年の夏。4大飢饉のひとつ、享保の飢饉がはじまる。
冷夏と害虫の発生により中国、四国、九州地方の西日本の各地、中でもとりわけ
瀬戸内海沿岸一帯が凶作に見舞われる。
梅雨からの長雨が2ヶ月間に及び、冷夏をもたらしたからだ。
イナゴやウンカなどの害虫が大量に発生し、稲作にさらに甚大な被害をもたらした。


 被害は西日本諸藩のうち、46藩に及んだ。
46藩の総石高は236万石であるが、この年の収穫は、僅かに63万石程度だった。
餓死者は、12,000人に達したという。
しかしこれは幕府の叱責を恐れて、各藩が少ない人数を報告したためだ。
幕府がまとめた『徳川実紀』によれば、餓死者は969,900人。
また250万人強の人々が、飢餓に苦しんだと言われている。


 翌年の1733年(享保18年)。
正月、飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民による、享保の打ちこわしが行われている。
背景にあるのは、農業の未熟さだ。
米だけに頼っていた農業生産にも問題は有るが、それ以上に当時の米は寒さに弱かった。
亜熱帯を原産とする米は、寒さに極端に弱い。
また害虫にもすこぶる弱い。
江戸時代の気候は、いまよりはるかに寒かったという記録も残っている。


 しかし。相次ぐ飢饉で、おおくの農民が亡くなったという記録は残っているが、
江戸や大阪の街中で、餓死者が出たという記録は無い。
封建時代。農民たちがいかにひどい扱いをされていたかが、よく分かる話だ。


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