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「平和の使い新島襄」

「平和の使い新島襄」

大人の「上毛かるた」(29)安中市

読み札(へ)・「平和の使い新島襄」



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 島 襄(にいじま じょう)は
天保14年1月14日(1843年) - 明治23年(1890年)
に生きたキリスト教の布教家で、
同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者
(事実上、同志社大学の創設者です)。
福澤諭吉らとならび、
明治六大教育家の1人に数えられている人物です。


 天保14年(1843年)、
江戸の神田にあった上州安中藩板倉家江戸屋敷で、
藩士の子として生まれます。
 本名を七五三太(しめた)といい、
この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子の誕生に喜び
「しめた」と言った事から命名されたという逸話が残っています
後に敬幹(けいかん)と改名しました。


 元服後に、
安中藩士となった頃、友人からアメリカの地図書を受け取り、
アメリカの制度に触れ、アメリカへの憧れを強く抱くようになります。
その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学びます。


 ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし
「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、
当時は禁止されていた海外渡航を思い立ちます。


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 元治元年(1864年)、
アメリカ合衆国への渡航を画策し、
「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、
箱館に潜伏中、当時のロシア領事館付の司祭だった
ニコライ・カサートキンと出あいます。


 カサートキンは七五三太から
日本語と日本の書物(古事記)などの手ほどきを受け、
また聖書に興味を持つ七五三太に自分の弟子になるよう勧めますが
七五三太のアメリカ行きの意思は変わらず、カサートキンはそれに納得し、
やがて、坂本竜馬の従兄弟である沢辺琢磨や
福士卯之吉と共に、
七五三太の密航に協力します。


 6月14日、
函館から米船ベルリン号で出国します。
上海でさらにワイルド・ローヴァー号に乗り換え、
その船中で、船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」
と呼ばれていたことから
以後その名を使い始め、
後年の帰国後に「譲」「襄」と名乗るようになりました。


 慶応元年(1865年)7月に、ボストン着し、
ここでワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけ、
フィリップス・アカデミーに入学します


 襄とともに、
献身的に活躍した明治の「悪妻」で「怪女」の、
八重も紹介したいと思います


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  八重は、
弘化2年11月3日(1845年) - 昭和7年(1932年)の
幕末から昭和初期に生きた女性で、
同志社創立者の新島襄の妻としてたいへん有名な人物です。


 旧姓は「山本」で
一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、
史料によっては「新島八重子」と書かれる
場合などもあるようです


 悪妻、烈婦、元祖ハンサムウーマンなどと呼ばれるほど、
明治の時代にあって、とてもエネルギッシュに生き、
皇族以外の女性として、はじめて
政府より叙勲を受けた先進的な女性でした。


 もとは会津藩の女傑と呼ばれた、「山本八重」です。
会津戦争では、女ながら、男物の軍服を着て、
7連発スペンサー銃を持ち、砲兵隊を叱咤激励し、
その指揮をとったという、
会津人なら誰でも知ってる「怪女」です。


 開城の時には、
城の壁にこんな和歌を残しました。

 
「明日よりは、いずこの誰か 眺むらん
          なれしお城に 宿す月影」


 戊辰戦争で父も弟も戦死し、
兄の覚馬を頼って京都に出ます。
 兄の覚馬は早くから洋学と洋式砲術を学び、
会津藩を洋式兵法に改革するなど、先見の明がありました。
(山本家は、武田の軍師・山本勘介の子孫とも言われています)


 兄の覚馬は幕末期に、
会津藩の京都守護職として京都に駐留したおり、
公用人として他藩との折衝にあたり、
また洋学の私塾を開いて、他藩の士も受け入れていました。


 鳥羽伏見の時には、
京都に留まっていて、官軍に捕えられましたが
西郷隆盛はじめ、官軍の幹部にもその名が知られており、
救われることになります。
この時すでに失明していたのですが、
山本覚馬は明治になってから、さらに活躍を続けます


 失明しながらも英語を学び、
聖書を読み、自らキリスト教に改宗します。
都が江戸に移り荒廃していた京都に、産業を起し、
日本最初の万国博覧会を開きます
京都人の信頼も篤く、府議会議員に推され、
府議会議長も務めました。


 そして妹八重子が、
外国帰りの新島襄に英語を習い、
聖書の翻訳を手伝っているうちに恋仲となり、
新島襄と結婚します。
その新島のために、自宅(旧薩摩藩邸6,000坪)が提供されて
同志社大学の前身、同志社英語学校が設立されます。
同志社の設立は、
山本覚馬によるところが大でした。


 「悪妻」や「烈女」と呼ばれた逸話についても紹介します
なかなか痛快です・・・


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 晩年、
雨などに濡れている女学生を見ると
無言で傘を差し出す姿が見られたといいます。
次代を担う女性を大切に思っていたことの証です。


 夫の襄との夫婦仲の良さを物語るエピソードが
たくさん残されています。
京都・新島旧邸にある襄の書斎は、
襄が亡くなった後、
八重が死ぬまでの42年間、
そのままの状態に置かれていたそうです


 悪妻、や 烈婦 と評されるにも訳があります


 「悪妻 」-
・夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗ったそうです。
これは新島夫妻が互いの尊重の上で、
男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものですが、
明治の時代においては世間からは「悪妻」と酷評されました。


 「烈婦」
 勤務していた京都女紅場が経営難に陥った際に、
女学校の補助金を増やすよう当時京都府参事であった
槇村正直にたびたび直談判し、
世間より「烈婦」と評されました。

 なるほど、頼もしいかぎりの女性です・・・
明治期には、興味をそそる女性がたくさんいますね。(笑)


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