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「日本で最初の富岡製糸」

「日本で最初の富岡製糸」

大人の「上毛かるた」(22)富岡市

読み札(に)・「日本で最初の富岡製糸」



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 上州の山間に突然現れた赤いレンガの巨大な工場。
それが富岡製糸場です
人口わずか2000人の寒村に、400人の女工が働く工場が建てられました。


 あらゆる意味で西洋から立ち遅れていた日本を近代化のため、明治政府は
「富国強兵と殖産興業」の政策を打ち出します。
殖産興業の中心におかれたのが、生糸です。


 生糸はすでに、輸出総額の70%を占めています。
さらに活性化するために政府は、「生糸の輸出振興と品質向上」を打ち出します。


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 1872年(明治5年)。
政府が巨額を投じて官営の模範機械製糸場を創り上げました。
それが富岡製糸場です。
富岡製糸場は、生糸の品質改善と生産性の向上、優れた技術者を育成するため、
最新式の製糸機械を備えた模範工場として誕生したのです。


 なぜ富岡に決まったのでしょうか?
富岡に決まった経緯が、飼料の中に残されています。
それによれば。


 ①富岡付近は養蚕が盛んで、生糸の原料の繭が大量に確保できる
 ②工場建設に必要な広い土地が確保できる
 ③製糸に必要な水が、既存の施設を使って確保できる
 ④燃料の石炭が近くの高崎や吉井で採れる
 ⑤外国人指導の工場建設に地元の人たちの同意が得られた


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 建てられた操糸場は、長さ140,4m。幅12.3m。高さが12,1m。
当時でも、世界最大級の規模です。
建設は明治4年から始まり、翌年の7月に完成をみます。
その年の10月4日から操業がはじまりました。


 300人繰りの操糸機が置かれ、全国から集まってきた工女たちにより、
機械による本格的な製糸の時代がはじまります。


 逸話が残っています。
政府が工女を募集しますが、「異人に生き血をしぼりとられる」と言う噂がひろまり、
思うように人があつまりません。
困り果てた政府が、各府県に人数を割り当てて、強制的に工女を集めます。
士族の娘たちに白羽の矢が立ちます。
信州松代からやって来た士族の娘、和田(横田)英(えい)もそうした一人です。


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 英は富岡製糸場での生活を、『富岡日記』の中に書き残します。
それによれば・・・


 私の父は信州松代の旧藩士の一人でありまして、
横田数馬と申しました。
明治六年頃は松代の 区長を致して居りました。
それで信州新聞にも出て居りました通り、信州は養蚕が最も盛んな国 であるから、
一区に付き何人(たしか1区に付き16人)。
13歳より25歳までの女子を富岡 製糸場へ出すべしと申す県庁からの達しがありました。
人身御供にでも上るように思いまして 一人も応じる人はありません。


 父も心配致しまして、段々人民にすすめますが、何の効もありま せん。
やはり血をとられるの、あぶらをしぼられるのと大評判になりまして、中には
「区長の所に 丁度年頃の娘が有るに出さぬのが何よりの証拠だ」
と申すようになりました。
それで父も決心致 しまして、私を出すことに致しました。


 さてこのようになりますと可笑おかしいもので、
よいことばかり私の耳にはいります。
あちらへ行けば学問も出来る、機場があって織物も習われると、
それはそれはよいこと尽し、私は一人喜び 勇んで日々用意を致して居りますと、
河原鶴子と申す方がその時13歳になられますが、
「お英 さんがおいでなら私もぜひ行きたい」と申されましたとのことで、
父君もお許しになりました。
いよいよ両人で参ることになりました。


 さあこのようになりますと不思議なもので、私の親類の人、
または友達、それを聞伝えて、我 も我もと相成りまして、都合16人が出来ました。
後から追々願書が出ましたが、満員で下げられました。


 一同用意もととのいまして、いよいよ近日出立と申すことになりました時。
父が私を呼びまし て、
「さてこの度国の為にその方を富岡御製糸場へ遣わすに付ては、
能よく身を慎み、国の名家の名を 落さぬように心を用うるよう、入場後は
諸事心を尽して習い、他日この地に製糸場出来しゅったいの節差支 えこれ無きよう
覚え候よう、仮初かりそめにも業を怠るようのことなすまじく、
一心にはげみまするよう 気を付くべく」
と申渡しました。


 母はこのように申しました。


 「この度お前を遠方へ手放して遣わすからには、常々の教えを能く守らねばならぬ。
また男子方 も沢山に居られるだろうから、万一身を持ちくずすようなことがあっては、
第一御先祖様へ対し て申訳がない。
また父上や私の名を汚してはなりませぬ」
と申しましたから、私はこのように申しました。


 「母上様、決して御心配下さいますな。
たとい男千人の中へ私一人入れられましても、手込めに 逢えばいざしらず、
心さえたしかに持ち居りますれば、身を汚し御両親のお顔にさわるようなこ とは
決して致しませぬ」
と申しましたら、母が、


 「その一言でまことに安心した。必ず忘れぬように」
と申しました。
私は自分で申しましたことを一日も忘れずに守って居ります。


 一行の人々も皆このように申されたであろうと存じます


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 1979年(昭54)。
映画「ああ野麦峠」(監督 山本薩夫主演 大竹しのぶ 新日本映画・東宝配給 )
が製作され、日本中を沸かせました。


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 生糸の増産に湧く、明治から大正の時代。
飛騨に住む若い娘達が、吹雪の中を命がけで難所を越えていきました。
野麦峠の標高は、1672m。


 13歳前後の娘達が野麦峠を越えて、岡谷や諏訪の製糸工場へ向かいます。
故郷へ帰る年の暮れも、雪の降り積もる険しい峠が彼女たちを待ち受けています。
親に会うことも出来ず、この峠で亡くなった娘たちもたくさんいます。


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 峠には「お助け茶屋」と呼ばれる茶屋が建っている。
疲れた体を休め、クマザサの生い茂る峠を信州から飛騨へ下っていきます。


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 現金収入の少なかった飛騨の農家から、12歳そこそこの娘達が、
野麦峠を越えて信州の製糸工場へ、「糸ひき(生糸作り)」の働きに行きました。
大みそかに持ち帰る糸ひきの給金は、なくてはならない大切な収入源です。
借金を返すために、あてにされていたお金だったのです。


 信州へ働きに行く娘達が、2月半ばに古川の八ツ三旅館に1泊します。
次の日。あちこちの村々から集まってきた人達が、一緒になります。
宿屋の前には、山一・山二・片倉組・小松組など岡谷の製糸工場の社名を書いた
看板や、高張り提灯が立ちます。
ここまで娘を送ってきた親と子の、辛い別れがいつまでも続きます。


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「ええか、しんぼうするんやぞ。
ためらっていってこいよ。(気をつけて行きなさい)」

「ツォッツァマ(お父さん)も
病気しなれんなよ。(病気にかからないように)」


 娘は泣き、見送る親たちも、涙をこらえて別れを惜しむ。
そして何百、何千という女工が列をつくり、互いに励まし合いながら、
雪深い野麦峠を越えて、信州へ旅立っていきます。


 しかし。信州でもらえるのは、わずかの賃金。
1日に13~14時間という、長時間労働もあたりまえ。
病気になっても休ませてもらえない。厳しい生活の連続です。
逃げ帰ると困るので寄宿舎には、鉄の格子がはめられていたといいます。

 
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 おなじ明治時代のはなしです。
近代的な機械製糸が導入されていくかたわら、ほとんどの生糸は、
幼い少女たちに手によって、紡がれていたのです。

 文明開化の舞台裏に、献身的にはたらく女子がたくさんいたのです。
彼女たちのひたむきな努力が、今日の日本の繁栄の礎を築いたといえるでしょう・・・
敬服に値する話です。


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