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現代小説 更新中

「沼田城下の塩原太助」

「沼田城下の塩原太助」

大人の「上毛かるた」(23)沼田市

読み札(ぬ)・「沼田城下の塩原太助」



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沼田は、河岸段丘の町。
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 沼田市から国道17号を三国峠方面に向かう途中に
豪商で知られた塩原太助の銅像と、愛馬『青』を繋いだ「別れの松」が有ります。
新治村(にいはる・むら)、「太助ドライブイン」です

 
60%,画像の説明


 歌手の歌川二三子さんが、塩原太助の人生を歌っています。
作詞、作曲ともに本人が手がけています。
歌詞の全文を紹介します。


 ハードッコイ ドッコイ ドッコイナ ドッコイ ドッコイ ドッコイナ
 上州自慢は 数々あれど(ハッ)
 江戸の昔の お話ですが(ヨッ)
 ちょいと 気になる 塩原太助(ハッ)
 どんな 人なの 塩原太助
 上州沼田 下新田の豪農に育ち 幼いころから
 愛馬のアオと 暮らしてきた太助は
 武士を志すも 父母に許してはもらえず
 江戸をめざして 家を出る決意をしました


 野良着(のらぎ)一枚 素足にわらじ
 こころ 残りは アオとの別れ
 村の はずれの 一本松に
 つなぐ つなぐたづなに また涙


 無一文の太助は やっとのおもいで 榛名山のふもと
 山本坊に たどりつきました
 そこで住職さんに訳をはなし わずかばかりの
 お金を貸してもらいました
 和尚さん ありがとうございました
 これで江戸へ行けます ご恩は一生わすれません
 おー太助 たっしゃでな
 太助19才の 旅立ちでした


 夢は うらはら 身投げを 覚悟
 橋に たたずむ 背中に 夜風
 捨てる 神ありゃ 救いの 神も
 それは それは炭商 山口屋


 山口屋善右衛門は 命の恩人 太助は懸命に働いて
 貯めた お給金で湯島 無縁坂の改修をしたり
 世のため 人のために尽くす やさしさのこもった
 仕事ぶりを 20年あまり続け
 そして 独立を いたしました


 雪の 降る日も 嵐の 日でも
 俵 かついだ 太助に 朝日
 故郷(くに)を 出てから 幾年(いくとせ)過ぎた
 炭屋 炭屋塩原 花ざかり


 ハー ドッコイ ドッコイ ドッコイナ
 苦労苦の字は 苦楽の苦の字(ハッ)
 苦の字なければ 楽にはなれぬ(ヨッ)
 太助 苦楽の お話でした(ハッ)
 わたしゃ 太助に あやかりたいよ


 作詞・作曲・歌 歌川二三子
http://www.uta-net.com/movie/134379/


 三遊亭円朝の落語、「塩原太助一代記」で有名になった江戸時代の豪商です。
幼名は彦一。
裸一貫で身を起こし、苦労の末、大商人に成長します。
戦前。立志伝型人物として教科書に登場しました。


 落語「塩原太助一代記」は、明治11年に完成した15席続きの人情ばなしです。
利根郡新治村に生まれ、最初の所帯を持ついきさつから始まり、
女房とその愛人に命を狙われ、単身江戸に行くため、愛馬の「青」と別れます。


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 上州沼田で「お大尽」と呼ばれた豪農が、塩原角右衛門です。
太助が塩原家に養子にやって来て間もなく、塩原家にひょんなことから居ついた、
おかめと言う子持ちの女が、角右衛門の後添えになる。
太助もおかめの娘・おえいと夫婦になる・・・
そして、その後間まもなく、角右衛門が病で他界する。


 多助の受難が始まる。


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 角右衛門の墓参りの帰りのこと。
おかめが手篭めにされそうになったところを、通りかかった武士の原丹治が助ける。
それが縁となり、原丹治とその息子が、太助の屋敷に出入りするようになる。
やがて、おえいと原丹治が不義の仲となる。
不義の2人にとって、夫の太助が邪魔になる。


 おかめ、おえい、武士の原丹治と息子の丹三郎が共謀して、
あの手、この手で多助の追い出しにかかる。
だが、なかなか逃げ出さない多助に業を煮やし、ついに殺す計画を立てる。


 この計画を阻止するのが、多助がおさない頃から世話をしてきた愛馬『青』。
使いに出た途中で、青が突然立ち止まる。
がんとして、その場から動かなくなってしまう。
その場所の先に、太助を殺そうと原丹治と息子が待ち構えていた。


 そこへたまたま通りがかったのが、
御膳籠を担いだ多助の友達、円次郎です。
青は心の中で


 「申し訳ないが・・・
  大事な主人の為に身代りになって頂戴ね」


 と、太助は屋敷へ戻し、
身代わりの円次郎とともに先に進みます
そこは、原丹治が切り殺す手はずを整えて
隠れている場所でした


 青の機転で命は助かったものの、
おかめから「円次郎殺し」と言いがかりをつけられ、
多助は、屋敷から追い出されそうになります


 養父・角右衛門の為に
塩原家を守ろうと頑張る決意はしたものの・・・
青が「こいつらが円次郎を殺したんだ!多助どん!」
と、言わんばかりに原親子に向かっていなないているのを見て


  「逃げなきゃ、いつか殺される。
   たとえあの4人に塩原の家を潰されても
   生きていれば自分が家を興せばいいんだ!」


 そう悟った多助はある日、
支払いの金を持って江戸へ出る決心をします。
青の手綱を庚申塚の木にくくりつけ、
後ろ髪を引かれる思いで、
長年暮らした上州沼田を後にするのです・・


 しかし太助は、
江戸に出ても奉公口を探すことが出来ず、
ついに思いあまって死のうとし、
神田昌平橋から身を投げようとしました。
その時「早まるな」と後ろから抱き止めてくれた人が
炭商山口屋善右衛門でした。


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 太助はここで奉公を続け、
朝は星のあるうちに起き、
夜は人声が鎮まるのをまって寝ました。
 他の奉公人の休む隙に、
はき古しのはき物の鼻緒をすげ替えておいて、
急な場合の役に立たせたり、
落ち散っている縄屑などを拾い集めておいて
炭俵のつくろいなどに使いました。


 このようにして、
いつしか「奉公人の鑑」とまで
感心されるようになりました。

 また山口屋に奉公して5年目のこと。
毎日、炭荷を積んだ車を引いて通る
湯島無縁坂が荒れていてひどかったので、
太助は自費で改修を行いました。


 晩年には、
中山村の反峠に渋茶の接待所を設けたり
伊香保より榛名神社に通じる天神峠に常夜燈を建てて、
旅人の便を計ったりしました。
このように生涯を通じて公益事業に巨費を投じたのです。


 太助は山口屋に奉公した23年の間、真面目に良く勤め、
38歳の時に独立し、本所相生町に炭屋を開業しました。
「顧客は神様」という信念で、
堅実にじっくりと事業の経営をしました。


 太助夫婦はともに協力し、
48歳の時に広い屋敷を求めて新店舗を構え、
はじめて財をなした豪商となったのです。
巨万の富を築き、公儀の御用を勤める身分となって、
「本所にすぎたるものが二つあり津軽大名、炭屋塩原」
と言われるようになりました。


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