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現代小説 更新中

「老農、船津伝平」

「老農、船津伝平」

大人の「上毛かるた」(43)

読み札(ろ)・「老農、船津伝次平」



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 老農(ろうのう)とは、
おもに明治時代、農書に基づいて在来農学を研究し、
これに自らの体験を加えて高い農業技術を身につけた
農業指導者のことを指しています。


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 特に群馬県の船津伝次平、
奈良県の中村直三、
香川県の奈良専二の
3人は明治の三老農と呼ばれ、
彼らに次いで福岡県の林遠里、
秋田県の石川理紀之助が知られています。


 彼らは、輸入学問であった近代農学とは独立して、
近世以前の在来農学の蓄積に基づき、
単なる個人の経験の寄せ集めと、いう段階を越えて、
実証主義的な態度からの技術改良を志向しました。


 一部には、
イネの品種間の実証的な比較収量試験を行ったり、
メンデルの法則の導入以前から、
交配によるカイコの品種改良を試みるものもいたといいます。


 この老農らによって、
1875年頃から各地で種子交換会や農事会など、
農業技術の交流を行う組織が形成されました。
また、老農らによって集約・収斂された在来農学の集大成は
明治農法とも呼ばれました。


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 老農らをまとめ、
組織化した会は農談会とよばれ、
農談会は明治初期より各地で小規模なものが開かれていたが、
1881年3月に開催された全国農談会が、
初の全国規模の農談会といわれています。

 「老農」伝次平は、
天保3年(1832年)、
勢多郡原之郷(現:富士見村)の名主の家に生まれました。
伝次平が生まれた船津家には
「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」
という家訓があり、寄生地主化への道は意識的に選ばず、
養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、
和算、漢学、俳諧といった文化に積極的に関わり、
寺子屋を開設するなど、
地域文化の核としての役割を果たしていました。


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 そのような環境の中で、
地域の農民の教育や、農業改良普及に尽力した伝次平は父親の死後、
若くして名主を継ぎ、広く村民に愛されるようになりました。


 その名声は明治政府にまで届き、
請われて駒場農学校の教官になりました。

 駒場農学校では西洋農法と日本農法の
よいところを併せ持つ混同農法(船津農法)を生み出します。
さらにその後、農事試験場技師に就任し、全国を駆け巡りながら
新しい農法を普及し、日本農業の近代化に大きく貢献しました。


 明治31年(1898年)6月15日、
郷里で亡くなりました。
享年66歳。
お墓(県指定史跡)は富士見村原之郷にあります。

 こんな逸話が残っています
名主の家の出であることから学があり、
多趣味・多才な人物です。


 和算は、 大川茂八に最上流、斉藤宣義に関流の指導を受け、
 俳諧では、 藍沢無満に師事し、俳号を冬扇と称しました。


 俗謡の名人でもあったようです。
巡回講師を務めた各地の講演では、
余技のチョンガレ節に乗せて栽培の流れを説明するという、
農民にも覚えやすく、ユニークな講義が好評を博したといいます。


 伝次平は、若い頃から名望が高く、
周囲に推されて、原之郷の村役人を何年も続けて勤めさせられました。
これに閉口し、村役人就任を断るために、
髪を剃って坊主頭になってしまいます。
坊主頭の者に村役人を頼むわけにはいくまい
という考えからです。


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 しかし周囲はお構いなしに
村役人就任を要請し続けたため、結局折れた伝次平は、
坊主頭の上に、まげを結ったかつらを被って、
引き続き村役人を務める羽目になったそうです。

 明治の初め、政府は産業を興すこと
特に農業を盛んにすることに力を入れ、
大久保利通内務卿は各県から農業にすぐれた人を推薦させました。


 伝次平と会った大久保内務卿はすっかりほれ込んで、
農民としてただ一人、東京駒場農学校の教師に採用しました。
伝次平が四十六歳の時です。


 駒場農学校の農場は、
「泰西農場」(西洋農場)と
「本邦農場」(日本農場)の二つに分かれていました。

 駒場農学校を作った理由は、
農業を発展させるため、
日本と西洋の農業を比較研究させるためだったのです。
 若い頃から農業技術の改良に熱心だった伝次平は、
日本の農業のよいところと、
西洋の農業のよいところを混ぜ合わせた
「混同農業」を学生に教えました。


 ところが、明治中頃、
井上馨農商務大臣が外国を視察して帰り、
欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、
新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、
それを、まず駒場農学校で実用するように命じました。


 しかし伝次平は、
日本の農業は、大型農具と多数の人を使ってする
欧米の農業とは違うと反対します


「日本は、耕地が少ないうえ、
山国で高いところから低いところまであり、
しかも気候の変化も激しいという、
欧米とは違った土地と気候である。
だから日本の農業は、大農法に向いていない」
と反論しました。


 伝次平は、狭い土地をていねいに耕し、
多くの収穫を上げていくのが
日本の農業であると信じていました。


 伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、
その後、『稲作小言』を書き、大農論者に反論しました。


当時、農民の就学率、識字率が低かったため、
八八調の文章『稲作小言』をチョボクレ節で歌って広めました。


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 原文をそのまま紹介します


 「稲作小言」

ヤレヤレ皆様   しばらくお耳を拝借しますよ
 私と申すは ずうっと昔の その また昔の神代の時代に 
 豊葦原より現れ出ましてそれより日本に広まりましたる お米であります

 飯にはもちろん 酒でも寿司でも 菓子でも味噌でも お米で作れば
 味わいよろしく 紙すく糊にも 布はる糊にも 調法いたして 無類のものなり 
 とげる時分に 出たる粉糠は 牛馬の食料
 風呂場に有用 肥料に要用  沢庵漬けには最も必要 
 糠味噌にも これまた同様

その茎わら 飢饉の食料 製紙の材料
 縄・みの・むしろに俵に叺に 草鞋に脚半に 農家のふき草
 垣壁なんどに 添えるはもちろん 貯蓄のたねもの 包んでおくなら
 温気は通さず 湿気も犯さず 焚きてはその灰 種々に必要
 腐敗しますりゃ 肥料に適当 そのほか効用 枚挙はつきせず

然るにこのごろ お米を廃して 肉食世界に 改良しなさる
 お説も聞いたが 肉食世界を 拒むじゃなけれど 獣類なにほど
 繁殖なすとも 値段が高くちゃ 下等の人民 食うことかなわず
 米なら三銭 四銭でたくさん
 穀類作れば一反二反の 僅かな田地の 収穫ものでも一戸の家内の
 四人や五人は 年中食して余りがあります
 牛馬を一頭育ててみなさい ある人申すに数年原野に 
 放牧するには一頭飼育に 六,七町余りの 地面を要すと
 ヤレヤレ皆様 よく聞きなされよ
 六,七町余に 一頭ぐらいを 飼うよなことでは 三千八百余万の人民
 匂いをかぐには 足りるであろうが
 食うには足るまい 足らざるときには肉類輸入し つまりは必ず お国の損耗
 
近年お米が 豊作続きで 安値であれども 安値であるとて捨ててはいけない
 十分はげんで 智力をつくして光沢味わい 最もよろしき 上等種類を多分に作りて 
 どしどし輸出し外国一般 その良き味わい 十分知らしめ
 肉食世界を 米食世界に 変ずるようにと 尽力するこそ 農家の職分
 皆様はげんで勉強しなされ 勉強なさればお金はどっさり 日本に充満 日本に充満

  明治二十年 船津伝次平 作




・付録

奈良専二(なら・せんじ)

生年: 文政5.9.13 (1822.10.27)
没年: 明治25.5.4 (1892)
中村直三,船津伝次平と共に明治三老農と呼ばれた。


中村直三(なかむら なおぞう、1819年 - 1882年)は、
奈良県出身の老農(篤農家)・農業指導者。
群馬県の船津伝次平、香川県の奈良専二と並び、
「明治の三老農」の一人として明治農法の確立に努めた。


 また、従来の農書とは別に、角力番付、一枚刷り、小冊子など、
農民にわかりやすい形式を活用して、自らの農法を積極的に広めた。


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