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「花山公園つつじの名所」

「花山公園つつじの名所」

大人の「上毛かるた」(26)館林市

読み札(は)・「花山公園つつじの名所」



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 群馬県の東部。『鶴舞う形の群馬県』の、くちばし近くにあるのが館林市です
花山公園は昔、「つつじが崎」と呼ばれていました。
野生のヤマツツジが密生した陸地が、城沼に突出した地形から
そのように呼ばれたようです。


 元和(げんな)9年(1623)の古文書によれば、
「・・・つつじの園と呼ばれる処あり、つつじの花盛りのころには、
その景観が城沼に写って美しく、満開になると見物人が近村近郷から
集まり鑑賞した・・」とあります。


 ここに、「つつじヶ岡伝説」という悲劇が残っています。


 昔。館林の殿様にはお辻の方という、大変美しい側室がおりました。
お辻は殿様の寵愛を一身に集めたため、正室にねたまれます。
仕打ちに耐えきれず、お辻は侍女のお松とともに城沼に身を投じてしまいます。


 お辻の霊を慰めるために、沼辺の丘にひと株の「ツツジ」を植えたのが
「つつじが丘公園」のはじまりと言われています。


 歴代城主による移植と保護も見のがせません


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 古来から自生していたヤマツツジに加え、寛永(かんえい)4年(1627)。
当時の領主が新田義貞の妻が遺愛したつつじ、数百株をここへ移植します。
1661~1672年の間。さらに日光の山より、数株のツツジを移植します


 さらに1849年の春。
領内の寺から白色10株、紫色1株のツツジを献木させます。
「館林藩史料」によれば城主が交代する際、双方から係の者が出て、
一本一本数え、目録をつくり引き継いだ記録されています。


 またこの時代。見物客のマナーが悪かったようです。
非常に公徳心を欠き、酔いに乗じて枝を折ったり、花を持ちかえる者も
少なくなかったようです。
そのことを残念に思った当時の領主が、これを取り締まる方法として、
制札ぐらいでは何の効果もないことを知り、「ツツジの枝を折る者は、指を折る」
と宣言します。


 この結果。人々は
「花には手を触れるではないぞ。指がなくなってしまうから」
と身内を戒めました。
もしも誤って枝を折ると、身内にもその罪の及んできます。
罪を犯した者は、夜間になるのを待ち、ひそかにやって来てツツジ一株を植えて
これを償ったといいます。


 この取り締まりは枝を折ったり、花を持ち帰る悪い習慣がなくなったばかりか、
ツツジの数を増すことになりました。
まさに一石二鳥といえる妙案でした。


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 こうして大切に守り、育ててきたツツジ園ですが、
明治維新後、民間に払い下げられたことで、一時的に荒廃してしまいます。
明治13年。地元の有志と歴代の郡長により、荒廃したつつじ園の
復興がすすめられます。


 明治40年。敷地の東部が拡張されます。
新株を購入し、密集し過ぎていた場所からの移植も順調に進み、
今日のつつじ公園の原型が完成します。


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 さらに大正時代。
補充用として東京大久保の萬花園から、1200本のツツジを購入します
この補充用のツツジの中に、江戸の文化や天保年間にかけて、
ツツジの名所・大久保で生産されていたキリシマツツジ(江戸キリシマツツジ)
も含まれていました。

 いまでもこのとき購入されたキリシマツツジは、見事な古木となり、
いまでも綺麗な花をつけています。


 樹齢800年を越える高さ5メートルの、ヤマツツジの古木も残っています。
この古木も時期となれば、艶やかな花をつけます。
500あまりの種類。1万本をこえるツツジに彩られる公園は、
館林の春満開の象徴です。


 散策の道をたどりながら、数百年を生き抜いてきたツツジの花と、
香りを存分に楽しんでください。
情緒豊かに、城沼の周辺を歩くのもまた一興です。
群馬の東の玄関口にあたる館林は、ツツジの花で皆さんをお迎えします。


 営々と守られてきた全山を埋め尽くすツツジの景観から
今年の群馬の観光が始まります
今年の夏の観光キャンペーン・群馬DCは、此処から始まります。


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