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現代小説 更新中

「銘仙織りだす伊勢崎市」

「銘仙織りだす伊勢崎市」

大人の「上毛かるた」(34)伊勢崎市

伊勢崎市、島村に残されている養蚕農家の全容です

読み札(め)・「銘仙織りだす伊勢崎市」


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 古くから絹の生産が盛んで、
隣接する桐生市と並び絹織物(伊勢崎銘仙)
が有名です。
現在は市の積極的な誘致により
郊外に広大な工場群が建設され、
北関東有数の工業都市に変貌中です。


 製造品出荷額は1兆円を超え、
太田市に次いで県内第二位の地位に
上昇しました
近年は郊外型店舗の進出も著しく、
特に、伊勢崎オートレース場付近
(群馬県道2号前橋館林線沿い)
の発展が目立ちます。

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しかし、その一方で中心市街の空洞化も
進んでいます。


 東武鉄道の主力路線で
大動脈路線である「東武伊勢崎線」の
起終点でもあります
地元以外の人からはよく
「いせざき」と読み間違えられますが、、
読み方は清音の「いせさき」と読みます。

 銘仙は、絹を素材とした
先染の平織物の総称ですが、
同じ絹織物でも丹前地、黄八丈とは
区別してよばれています

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 語源は天明時代 (1781~1788)に、
経糸の数が多く、その織地の目の細かさ、
緻密さから、“目千”“目専”といわれたのが
転訛して“めいせん”になった
という説が有力です。


 そのふるさとは
関東地方に位置する伊勢崎、
秩父、桐生、足利、飯能などで、
これらは古くからの養蚕と織物の産地でした。




蚕の餌となるのが、こちらの桑の葉です

蚕は清潔で涼しい処で育てるという、新しい蚕の技術の発祥の地です 
 伊勢崎では、
約二千年前から農家の人々が
農閑期を利用して自家用としての
織物が始まったと伝えられていますが、
伊勢崎織物の名が広まったのは、
約250年前の亨 保・文政年間といわれています。


 もともとは太織り(ふとり)と呼ばれており、
人々は手製の熨斗糸(屑絹糸)、玉糸(節のある太い生糸)を作り、
それを草根木皮で染め製織しました。


 この頃には太織りの市が立ち、
利根川の舟便で江戸へ出荷されていきました。
太織りは、手織りのざっくりとした風合いと、
渋味のある縞柄の配色が洒落ていて、
その上、地質が丈夫であったため、
当時の着尺物として庶民の間で流行しました。


 人気が高まったことで、
商品用としても盛んに生産されるようになり、
江戸をはじめ大阪や京都にまで広まるようになりました。


 そんな中で
糸屋・染屋・機屋などさまざまな専門業者もあらわれ、
明治以降は、伊勢崎銘仙(あるいは銘撰)となって、
地質や、織り方にも様々な工夫が加わり、
太織りとは風合いも外観も異なる、
絹織物を織り出すようになりました。


 これが庶民の好評を博し、
桐生、足利、八王子でも銘仙を織るようになりましたが、、
最盛期の伊勢崎銘仙は年産130万反(約70億円)を記録し、
日本一の銘仙生産量を誇るようになりました。


代表的な養蚕農家の母屋です。2階部分が蚕用に使われていました

 
 市内北部の殖蓮、赤堀地区には
悲劇の武将「源義経」にまつわる伝説が残されています。


 義経が兄、頼朝の勘気にふれ、
京を追われて奥州平泉の藤原氏を頼って逃れるとき、
この地域を通る当時の主要道であった
旧東山道(あずま道)を利用したと云われています。
今も残る義経伝説のいくつかを紹介します

●義経馬殿塔

 義経の身代わりとなって、
満水した粕川で溺れ死んだ愛馬を、厚く葬って供養塔を建てました。
正観寺(上植木本町)の門前には、その石塔が立っています。

●掛矢の清水  

 義経のお供をしていた弁慶が、
のどの渇きを癒すために水場を探すように命じられたが見つからず、
天に念ずると「立っている下を叩いて見よ」とお告げがありました。
背にした七つ道具の一つ掛矢を振りかざし、
地面を叩くと清水が湧き出したといいます。

 実際にこの地域は、
伝説通り利根川の湧水地が多くあったところです。
地元の歴史研究会によって案内板が建てられています。

●酒盛地蔵

 書上浄水場の西、
畑の中にひっそりと小さなお堂に収まっている酒盛地蔵の由来は、
義経の一行が奥州に下るとき、地元の人が歓待するための宴を催すと、
そこに僧に化身した勝軍・地蔵菩薩が現れ、
一緒に義経の前途を祝したといわれています。

●牛石

 五目牛町には、
牛が背を丸めうつぶせているような姿の巨石があります。
少数の家来と大きな黒牛を連れた義経が、
粕川にさしかかったが、大洪水で渡れません。

 思案の末、まず牛を川に入れ、渡れるかどうか試したところ、
牛は激流に飲まれてしまいました。
翌日、水が引いた川辺には、石と化した牛があり、
義経は「牛石と呼び、長く弔い候う」といい、
渡り去ったといいます。


二階の屋根の上に取り付けられているのが、換気用の窓で、これで室内の温度を管理しています。この作り方が島村の養蚕農家の特徴です

 
 伊勢崎市は、
京都から日光への至る街道や、
東北面への街道も交錯する交通の要所の一つです
日光へは此処から進路を北にとり、赤城の山麓を辿りながら
足尾をぬけ、家康が眠る日光東照宮に至ります。
また東北に至る東山道(別名が、あずま道)は、足利尊氏の足利市を抜けて
福島からさらに、東北方面へとすすみます
伊勢崎市は、古代からの
いくたのいわれを秘めた町です。


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明治から大正にかけて、蚕の産地、島村ではこうした養蚕農家の建物が沢山建てられました


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