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「雷と空っ風、義理人情」

「雷と空っ風、義理人情」

大人の「上毛かるた」(39)箕輪城のはなし

読み札(ら)・「雷と空っ風、義理人情」



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 上州人気質を示す、
中世の武将、長野氏を紹介します


 長野氏が築いた
箕輪城(みのわじょう)は、
群馬県高崎市箕郷町にある平山城で
国の史跡に指定されている。日本100名城の一つです。


 箕輪城は、
榛名白川によって削られた河岸段丘に建てられました
城の西には榛名白川、南には榛名沼があり、
両者が天然の堀を形成しています。
東西約500メートル、南北約1,100メートル、
面積約47ヘクタールにおよぶ広大なものです。


 1512年(永正9年)
戦国時代中期、当地を支配する
長野業尚によって築かれました。


 長野氏はもともと南北朝末期、
井野川流域の開発を手がけ、その後浜川(高崎市浜川町)
に拠点を移し、西上州の武士団をまとめていった一族です。
一族の中で、もっとも力を振るったのが
長野業政(ながのなりまさ 1491~1561)でした。


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 業政の居城は、
榛名山麓から連なる尾根の末端に、
祖先によって築かれた箕輪城です。
箕輪城はいくつもの巨大な空堀をもつ堅固な山城でしたが、
それに加えて業政の采配は賢明でした。
隣国の武田信玄は
6回にわたって城を攻めましたが、
業政はわずかな兵でいずれも撃退しています。


 弘治3年(1557年)以来、
連年のごとく上野(こうずけ、現在の群馬県)
に侵攻してきた武田信玄は、
ある一人の武将に行く手を阻まれます。
上州箕輪城(みのわじょう、現高崎市)主、長野業正です。


 業正は関東管領山内上杉氏の重臣で、
斜陽の主家を支え続けます。
とくに永禄2年(1559年)の武田の侵攻は
西上野が失陥するような危機でしたが、ここで
見事に信玄の侵略を撃退しました。


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 甲信の兵二万を率いた信玄は、
上野に入るとまず安中城を攻めるべく鼻高に布陣しました。
急報を受けた業正は直ちに手勢を率いて
若田原で武田軍と対陣します。


 睨み合いが続く中、雨が降り出しました。
すると長野軍が武田軍の眼前からふいと消えます。
信玄が雨宿りかなと訝る中、
大きく迂回した長野軍が背後から襲いかかりました。
そしてあっというまに敵陣をかき乱すと
風のように去っていきます。


 歯噛みして悔しがった信玄が
「業正を手取りにせよ」と
箕輪城の周囲の砦に攻めかかりますが、
すでにそこは業正が去った後でした。


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 ならばと信玄は、箕輪城に直接攻撃を加えます。
ところがこれこそ業正の思うつぼで、
周囲の砦から湧き出してきた城兵と箕輪城の兵で
挟み討ちされた武田軍は、大混乱をきたし、
ほうほうの態で敗走します。
信玄の生涯の中でも珍しいほどの大敗でした。


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 信玄と業正は六度戦ったといわれていますが、
信玄は一度として優勢に立てませんでした。
驚くべき小地域戦闘の名手ですが、
上州、信州はこのような戦上手を幾人か輩出しています。
真田一族などもその典型です。


 業正を生んだ長野氏は、
在原業平を祖と称する上野の国人です。
一説では物部氏系の石上姓を名乗っていたとも伝わることから、
当初は石上姓だったとも在庁官人の出身だったともいわれ、
定かでありません。
ただ代々「業」の字を名乗っていることから
在原業平の後裔を意識していたのは間違いないと思います。


 長野氏が当初から
関東管領・山内上杉家の重臣だったわけではないようです。
山内上杉家やその上野守護代長尾氏の内紛を収め、
介入していくうちに次第に台頭していったと思われます。


 有名な難攻不落の名城、
箕輪城を築いたのは業正の父長野憲業の時代だったようです。
以後長野氏は箕輪衆の旗頭として山内上杉家で重きを加え、
主君上杉憲政が北条氏に関東を追われ
越後に逃亡した後も、一人孤塁を守り続けます。


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 業正の戦績は
武田氏とのものが有名ですが、
北上する北条氏康とも何度か戦い撃退に成功しています。
業正が健在の間は、武田、北条は思うように
上野を侵略できませんでした


 業政は死ぬ直前、
子の業盛(なりもり)を呼び寄せて言い残します。


「私が死んだ後、
一里塚と変わらないような墓を作れ。
我が法要は無用。
敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。
敵に降伏してはならない。
運が尽きたなら潔く討死せよ。
それこそが私への孝養、これに過ぎたるものはない」


 業政の死を知るやいなや、
信玄はすぐさま兵を差し向け、
ついに箕輪城を陥落させてしまいます。
子の業盛は父の遺言を守り、最後の一兵まで抗戦したが力及ばず、
これまた父の遺言に従って、敵に捕まる前に
城内の持仏堂に入って自害して果てます。


 業盛の辞世の句です


「春風に 梅も桜も散り果てて 
名のみぞ残る 箕輪の里かな」


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