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現代小説 更新中

「鶴舞う形の群馬県」

「鶴舞う形の群馬県」

大人の「上毛かるた」(18)群馬県

読み札(つ)・「鶴舞う形の群馬県」



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 中沢琴は
法神流剣法の達人・中沢良太郎貞祗(さだまさ)の妹です
 位牌、過去帳、村の戸籍簿を調べても年齢は不詳で
貞祗より二、三歳年下とだけしか分かりません


 身長は
五尺六、七寸(約170センチ)、
目鼻立ちもよく面長の美人という評判です。
幼いときから父・孫右衛門に剣術を学び、
特に長刀(なぎなた)では父にも劣らなかったといいます。


 文久三年正月、
兄貞祗が浪士隊に入るときに
お琴も強引に貞祗について江戸へ出ます。
 徳川幕府が、京都に跳梁する勤王の浪士たちを制圧するために、
浪士隊を編制して京都に派遣することを決めたためです。 


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 のちに、
京都に残り新撰組をたちあげた近藤勇や
土方歳三達も一緒です。
さすがに女性のままでは目立ちすぎるので、
琴は男装して兄と行動をともにします
このころの記録に、男装すると多くの女性に言い寄られ、
女性の姿でいると、男たちが次から次に
口説きに来たと残されています。

 
 京に送り込まれた浪士隊は、
わずか二週間で江戸へ呼び戻されます
残った者たちが京では新撰組となり、
戻った江戸では新徴組と名乗ります


 琴も男装して貞祗とともに、
江戸市中を見廻り、治安の維持にあたります
毛利、島津両屋敷の襲撃にも加わり、
藩摩屋敷では左足のかかとを切られたこともありました。

 やがて官軍の進出に押されて、
新徴組は出羽国(山形)庄内に移動します

 庄内戦でも官軍の砲火を浴びながらも奮戦します
このときにも官軍十数人に囲まれますが、二、三人を切り伏せ、
たじろぐ敵中を突破して逃げのびます。


 このころでもまた、
江戸でも庄内でも娘たちに、
惚れられて困ったたという、
琴の記述がのこっています。


 維新後は、
兄とともに開墾事業に従事しますが、
明治7年に故郷の利根郡にもどります。
兄が38歳とありますので、琴は30半ばの女盛りです。


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 嫁に欲しいと申込む男も多かったが、
「自分より弱い者のところには嫁には行かぬ、
欲しくば打ち負かせ」と試合に臨みます
試合しても彼女を打破る者がなく、
お琴は独身で過ごします。


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 晩年まで一人で暮らし、
酒を飲むと、詩を吟じ剣舞を踊ったそうです
昭和二年十月十二日・八十七、八歳でその生涯を閉じました。
(以上、群馬人国記より)




※近年、新選組に興味を持つ方の間で、
「新選組に女隊士がいたか?」ということが
話題になっていますが、その第一の候補者が中沢琴だと思うのですが・・・
ただし、琴が京都にいたのは、わずかに二週間にすぎません。


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 群馬県は、
信越や日光東照宮への交通の要所として、
いくつかの主要街道が通過しています。
 中山道をはじめ、北国街道につながる三国街道、
京都と日光東照宮をむすぶ
日光例幣使街道などが有名です。


 女性剣士にちなんで、
姫のつく街道を紹介して
この項を締めくくりたいと思います


 「姫街道」は中山道の脇往還として
開削された街道で、
大名行列などは利用されませんでした。


 利便性が追求された為か
険しい道を避けたルート設定がされ、
女性が比較的通り易い事から姫街道などと呼ばれました。
 そのぶん物資の往来は盛んで米を中心に
生糸や麻、楮、煙草、漆などが取引されて、
各宿場は活気があったといわれています。


 中山道の本庄宿から分岐し、
吉井藩や七日市藩などの城下町を通り下仁田宿や、
現在でも古い町並みを残す本宿を経て、
再び中山道の追分宿に合流します。


 街道には西牧関所と
南牧関所の2つの関所が設けられましたが、
いずれも数人程度が務める小規模なもので
中山道の碓氷関所に比べると取締りも楽だったとされます。

姫街道(下仁田街道)のルート
借宿-初鳥屋宿-本宿-下仁田宿-宮崎宿-一ノ宮宿-七日市城下-富岡宿-
福島宿-吉井宿-藤岡宿-本庄


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