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現代小説 更新中

湯西川にて

落合順平「短編集」

湯西川にて

湯西川にて(1)中卒の清ちゃんは、

 湯西川温泉(ゆにしがわおんせん)は、
栃木県日光市(旧栗山村)の、日光国立公園内にある温泉です。
温泉地名の由来ともなった湯西川(一級河川利根川水系)の渓谷沿いに、
約500mにわたって旅館や民家が立ち並んでいます。


 ほとんどの旅館で、
渓谷に面した露天風呂を設置しています。
郷土料理は季節により、湯西川で捕れるイワナやヤマメ、ニジマスなどの川魚、
山菜や舞茸、チタケ(チチタケ)と呼ばれるのキノコ類などの山の幸が味わえます。
また、旅館によっては、野鳥や鹿、熊、山椒魚(サンショウウオ)といった、
珍しい郷土料理も堪能できます。
「ばんだいもち」という、うるち米でついた餅を
「ばんだい汁」や「じんごろう味噌」などで食べる郷土料理も有名です。
温泉街の飲食店では、手打ちの「日光そば」なども味わえます。

 旅館街から少し上流には、
昔は茅葺き屋根の民家を利用した土産物屋や、食事処が河畔の遊歩道沿いに並んでいて、
それらも温泉街の一部を形成していました。


 湯西川の先祖は、平忠実が落ち延びたとされています。
平家の落人伝説が今でも残る集落としても、よく知られています。
温泉の発祥は天正元年で、400余年の歴史を誇り、平家の
落人の子孫が発見したと伝わっています。


 追討から逃れ、身を潜める山村生活を営み生きるために、
この地では今でも、端午の節句には鯉のぼりを揚げないといわれています。
たき火をしない(煙を立てない)、鶏を飼わないなどの
独自の風習が、長年にわたって残されてきました。


 鬼怒川温泉の奥座敷とも称される
この湯西川温泉に、清ちゃんが芸者修業で訪れたのは
今から半世紀あまりも昔のことでした。
中学を卒業したばかりの、お下げ髪に赤いほっぺをしたこの女の子は、
当時、秘湯とされたこの温泉地に、たった一人でやってきて、
お春母さんのもとで、芸者修業を始めました。


 中卒が「金の卵」と、世間ではもてはやされながらも、
高校進学が過熱してきて、その終焉をむかえようとしていた、
そんな時代の矢先のことでした。



湯西川にて(2)お春母さん



 芸者の勤めとは、
舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添えて、
場を盛り上げ、各種の芸を披露することにあります。
座の取持ちを行う女子のことを指しています、
(かつては、太鼓持ちと呼ばれた男衆が芸者と呼ばれた時代もありました。)
通常は、宴席を設ける旅館にその旨を伝え、
予算や希望に応じて、旅館側で芸者の手配をしてくれます。


 一人前の年長芸妓は、島田髷に引摺り、
詰袖※の着物に、水白粉による化粧というのが一般的です
(※「留袖」のことです。 結婚後にそれまで着ていた振袖の袖を
短くしたことから生まれた名前で、別名を詰袖(つめそで)とも呼びました。)


 三味線箱を男衆に持たせたりして、酒席へ赴むきます。
半玉(見習い)や舞妓などの年少の芸妓の衣装は、
髪形は桃割れの少女の髷で、肩上げをした振袖を着用します。
帯・帯結びも年長芸妓とは違い、そのまま風格をあらわしました。




 芸者のお春は、今年で62歳になりました。
北関東の湯西川温泉では、一番年上の芸者ですが、
それでもお春にはお座敷がかかります。


 勿論、夕食時にお客に酌をする若い芸者に混じることは絶対にありません。
お春が必要になるのは、夕食後の宴会の席です。
その頃にはまだ、カラオケが流行っていませんでした。
宴会の席には鳴り物が必要で、お春は三味線が弾けました。
その三味線が重宝がられたのです。
なにしろお春は、14歳の時、まだ中学を卒業しないうちに秋田から出てきて、
江戸・深川の置屋で芸者の修業したのです。
以来50年近くも、芸者生活一筋の人生でした。


 お春は自分でお座敷に出ると同時に、置屋も営んでいました。
置屋を営むと言っても、お春の配下の芸者はたったの一人で、
湯西川では一番人気の、雪野と言う芸妓です。

 お春の所へは、いままでにも何人も芸者になろうとやってきました。
しかしお春は、年はとっていても、自分は本物の芸者という誇りがあるために
「温泉芸者」を育てるつもりなどは、毛頭もありませんでした。
したがって、きわめて厳しい教えになりました。
いまどきの若い人には、その厳しさに耐えられません。
また本人も、本物の芸者になるつもりなどはサラサラないし、
着物を着て、かつらつけて仕事をして見たいという
軽い気持ちが強いのです。


 ということで、
誰もお春の下では長続きをしませんでした。
清ちゃんが、お春母さんを訪ねたのは、
昭和40年の早春のことでした。





湯西川にて(3)金木犀(きんもくせい)の香り



 9月生まれの清ちゃんは、
金木犀(きんもくせい)の香りが大好きでした。
初めて逢ったのも、濃い蒼空の下で金木犀が盛んに香る季節でした。
小学校の3年生の時に、母子家庭の転校生として
同じクラスにやってきました。


 その日のお昼休みと休み時間には、一人ぽっちのまま
金木犀の花をを見上げていました。
今でもその時の光景だけは、なぜか鮮明に覚えています。
最初に声をかけたのは、レイコでした。
その日の下校時に、二人が仲良く並んで帰って行った姿も、
また、同じように記憶に残されています。


 もの静かで、切れ長の目をしたお下げ髪の少女は、
次の日からは、いつもレイコと一緒に行動するようになりました。
運動が大好きで活発だったレイコに数歩遅れながらも、校庭を駆け回るうちに、
山の手通り界隈の女の子たちのグループの中に、
吸収されて、いつのまにか溶け込みました。
それから先の清ちゃんのことは、いつも存在を意識していた様な気もしましたが、
なぜか記憶の中には何も甦ってきません。

 中学の修学旅行で、日光へ行ったとき、
艶やかな芸妓さんたち一行と、たまたますれ違ったことがありました。
初めて見る花柳界の粋な姿に、清ちゃんが強い衝撃を受けました。
この時の出会いがきっかけで、清ちゃんは芸妓なろうと決めたようです。
レイコから、芸妓になるという清ちゃんのその決意を聴いたのは、 
もう、卒業式も真近になった2月の末のことでした。
 250名近い中学の卒業生の中で、就職を決めたのは、
30名余りほど居て、ほぼ1割を超えた程度でした。


 しかし、レイコと親しく遊んでいたいう記憶はあるものの、
中学時代の清ちゃんの面立ちや容姿が、まったく記憶には残っていません。
「お別れ会は、どうするの?」とレイコに聞かれたとき、
何のこだわりも無く、即座に欠席を決めたことだけは気にかかりました。
が、あらためて訂正する勇気もなく、又その必要もないだろうと、
結局は、そのままにしてしまいました。


 その清ちゃんと再会したのは、
それから5年ほど経った、市主催の成人式の時でした。
訪問着姿のレイコと談笑する、もう一人の背中姿を見たときに、
ふいに、あの時の甘い金木犀の香りを感じました。
レイコに促されて、ゆるやかに振りかえった切れ長の清ちゃんの目もとには、
乙女をはるかに凌駕した、妖艶ともいえる目の光と
誘うような色香が宿っていました。





湯西川にて(4)「伴久ホテル」



 栃木県日光市・湯西川温泉の老舗の一つ、
伴久ホテル(同市湯西川、伴久盛社長、資本金9千万円)が25日、
宇都宮地裁から破産手続き開始決定を受けていたことがわかりました。
東日本大震災の影響で客足が途絶えたことが、破綻(はたん)の引き金になったとみられています。
東京商工リサーチ宇都宮支店によると、負債総額は約30億円です。


 同ホテルは全109室、550人収容。
従業員はパートを含め約70人。
江戸時代の1718年創業とされ、1934年に現在のような温泉旅館の形になりました。
平家落人の里として知られる湯西川温泉でも高級ホテルとして人気があり、
96年2月期には20億円台を売り上げました。


 しかし、不況の長期化とリーマン・ショック以降の経済低迷で売り上げは減少。
同支店によると、14億円前後で推移してきた年商は
2009年2月期に11億円台に落ち込みました。
10年2月期も9億8千万円まで減り、7億円を超える赤字を計上しました。
過去の設備投資のための借り入れが,経営を圧迫していたといいます。


 さらに、3月11日に発生した東日本大震災で予約のキャンセルが相次ぎ、
計画停電の影響もあって従業員によると同月13日以降は営業を休止していたといいます。
同ホテルの伴久一会長は、地域の旅館やホテル17軒でつくる
湯西川温泉旅館組合の組合長を務めています。
震災を受けて風評被害を防ぐPR活動に参加し、福島県からの避難者らを招いて
宇都宮市内で開かれた花見の会に温泉の湯を贈るなどしてきました。
同組合の伴弘美副組合長は
「連休に向けて予約状況は改善してきたところなのに、
突然でびっくりした」と話しています。 
【朝日新聞 - ?2011年4月27日】より、抜粋




 震災後に発覚した、たいへん衝撃的なニュースでした。
高度経済成長と観光ブームに乗って躍進を遂げた、この伴久ホテルの板場(厨房)に
就職したのは、昭和46年の初夏のことで清ちゃんと再会した成人式からは
わずかに半年後のことでした。
当時の板場では、10人以上の板前たちが板長のお品書きと指示のもとに、
毎日その腕をふるっていました。


 調理師学校を卒業したとはいえ、観光ホテルの板場では、
問答無用とばかり、新米の板前見習いとして扱われます。
朝は3時ごろから起こされて、前日からの仕込み作業を整えてから、
その日に使う野菜や、魚の下ごしらえがはじまります。


 「本当に来たんですねぇ~、
 そこの(板前の)新米さ~ん。」

 

 ホテルの裏手にある通用門のところで、日傘をさした
浴衣姿の清ちゃんに、やんわりと呼び止められました。
いつもの切れ長の目に、大きな黒い瞳が
とりわけ悪戯っぽく笑っていたようにも見えました。


 「お前が、成人式の時に、
 卒業したら、伴久へ来いって誘っただろう。
 真に受けてわざわざこんな辺鄙なところまでやってきたんだ。
 それでも、迷惑かい?」


 「あら、言ってくださるわねぇ。
 でも、言ったのかしら、そんなこと?
 (わたしの口が、軽すぎたかしら・・・)
 でもさ、観光ホテルなら、板前修業の華道だもの。
 早く登竜門を駆け上がって、
 一人前の華板さんに仕上がってくださいね。」


 それだけ言うと清ちゃんは、浴衣の裾を翻し、
黒髪から香る石鹸の匂いだけを残して、くるりと背中をみせました。
しゃなりと歩いて、本家・伴久のある「かずら橋」のほうへ消えてしまいました。
その後に、清ちゃんと再び行き会ったのは、
仕事を終えて、寮へと戻りかけた時の「かずら橋」でした。


 ライトアップされた川辺を見回した後、なにげに覗きこんだ橋のたもとで、
少し千鳥足で歩く芸妓姿の清ちゃんを見つけました。
川面の暗がりの中で、白い顔だけが浮かび上がっていました。
声をかけてみると、降りて来いと手招きをします。
呑みすぎてちょっと苦しいから、帯を緩めたいと言い出しました。
袖脇から手を突っこむと、折りたたんだタオルを2枚、
ひょいと取り出してみせました。

 
 「わたしったら、見かけ以上にスレンダーなのよ。
 すこし寸胴(ずんどう)にしてあげないと、着物がおさまらないの。
 別に酔っ払いの介抱をお願いしたいわけではありません。
 呼んだのは、別の用事です。
 はい、これ、
 休みの時に来て頂戴。」

 
 薄い封筒を渡されました。


 「お春お母さんところのお礼奉公も、ようやく無事に終えました。
 本日よりは、晴れて、通いの芸者になりました。
 今市(いまいち)に、アパートを借りましたので、
 それには住所も地図も、鍵もいれておきました。
 暇な時にだけ来て頂戴。
 用事はそれだけです、じゃあ、またね。」


 「おい・・・」


 と、呼び止めると、

 「売れっ子芸者は、仕事場のお膝元などには住みません。
 嫌ならいいのよ、 来なくても! 」





湯西川にて(5)二度目のお誘い



 平成に入ってから湯西川温泉では、真冬の新しいイベントが始まりました。
それが、「光輝く氷のぼんぼりと、かまくら祭」です。
今市(いまいち)からほど近い鬼怒川温泉地までには、それほどの降雪はありません。
しかし、その先へ伸びる奥鬼怒の湯西川への山道は、進むにつれて
雪の量が序々増え、やがて山肌を真っ白に閉ざしてしまいます。
多い冬には、それが1mを越えました。


 北越地方の「かまくら」をまねた冬の遊びは、
昔から伝えられてきましたが、近年はそれが観光化されました。
幻想的にライトアップされた氷柱と、淡いぼんぼりの揺らめきが、
冬の湯西川の新しい風物詩に生まれ変わりました。


 昭和40年後半の湯西川は、
手ごろに雪景色と温泉との風情が楽しめると有って、
団体客やグループ客が、わざわざ積雪の時期を狙って集まってきました。
雪道を走るとはいえ、わずか30分ほどの山道を抜けさえすれば
もう、普通の舗装道路に出られるほどに便利だからです。

 その夜、顔なじみの仲居に呼び止められました。
9時を過ぎたばかりで、館内には団体客が3組ほどあるだけでした。
宴席料理を仕上げた後の厨房では、半分以上の板前が帰り仕度をしています。
ここでの洗いものは、すべてアルバイトに任されていました。
雪が小止みになった様子を確認してから、
帰ろうとした、その矢先のことです。


 「松雪姉さんからです。」


 それだけ言って、小さく折りたたんだ紙切れを
私の手の中に押し込んで、足早に立ち去ってしまいました。
松雪とは、清ちゃんの芸妓名です
「至急、本家・伴久にこられたし」とだけありました。
本家・伴久は、湯西川にかけられた「かずら橋」を渡った先にあります。




 芸妓は、十二月から二月にかけては、
二枚重ね(にまいがさね)を着用します。
着物を二枚重ねて着るから「二枚重ね」と呼び、今のように暖房も発達していませんので、
防寒の意味も含めて、着物を重ねて着ていたようです


 特にお正月は、元旦から松の内の間は、
黒紋付の二枚重ねを着用しました。
一般でいう留袖にあたり、芸妓さんの正装にあたります。
松の内の間は、頭につける挿し物も特別で、
白い鳩が稲穂をくわえた形のかんざしと、その年の干支の挿し物を飾ります。
この鳩のかんざしのことを「とりこめ」(鳥と米)と呼んで、
新年最初のお客さまや、好きな人に朱で目を入れていただくという
古くからの習慣がありました。


 なお、三月から五月にかけては、袷(あわせ)の着物に変わります。
これを二枚重ねに対して「一枚着」と呼んでいます。
さらに五月から六月にかけては、単(ひとえ)になります。
二枚重ね、一枚着の裾にある「ふき」が、単の着物からなくなります。
「ふき」というのは、裾の周縁ぐるり、裏地を表に返して綿を入れた部分のことです。
これは裾がきれいに広がるよう、重しの役目を果たすのだろうといわれています。


 六月から九月までが、絽(ろ)の着物の季節です。
そして再び、九月から単、十月からは一枚着になります。
芸妓さんは季節にあわせて、頭の挿し物や、着物の柄が変わってゆくのです。


 「松飾りがあるうちに、来るかと思った居たのに、
 待てど暮らせど、来やしない。
 今日はすでにぎりぎりの7日で、
 それも・・・10時近くじゃないですか。」


 「急用だったかい?」


 と、聞き返したこちらの顔を見もせずに、清ちゃんは早々と
本家・伴久の若女将に、帰りの挨拶を始めてしまいました。
清ちゃんの師匠に当たる、お春母さんの三味線の弟子と言うこの若女将は、
清ちゃんが大のお気に入りです。
温泉街のイベントやお祭りのたびに、仲良く寄り添うこの二人の姿を
良く目にしたものでした。

 「雪道ですので、この時間ですと、凍っているかもしれませんね。
 充分に、お足元にはお気をつけて下さいな。」


 にこやかな若女将に見送られて、駐車場に出ると、
清ちゃんが一台の車を指さしました。
驚いたことに、それは昨年アフリカで開催されたラリーで
初優勝を飾ったという、国産メーカーのスポーツタイプのセダンでした。


 「へぇ~、売れっ子芸者は、
 車も派手だねぇ、
 で、どうするの、これからサファリにでも
 遠征に行くわけ?」


 「罰として、運転して頂戴。」


 「罰?
 別に、心当たりはありませんが、」


 「そうなの・・・
 松の内がもう、終わるというのに、
 私のかんざしはいまだに、目が開かないままなのよ。
 お母さんにも、たっぷりと絞られたし、
 若女将にも、意地を張るのも、もういい加減にしなさいと、
 ついさっきまで、諭されてしまいました。
 もう、泣きたくなってきちゃったなぁ、
 あたし。」


 黙って清ちゃんから鍵を受け取り、
運転席に座ると、エンジンをかけました。
小気味良い振動と共に、軽いエンジン音が響き渡ります。
黒紋付に着いた雪片をはらりと払って、清ちゃんが助手席に乗り込んできました。
さて、行く先は・・・






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