http://saradakann.xsrv.jp/y_key_1456d36d458ffacd.html

現代小説 更新中

忠治が愛した4人の女 (1)       はじめに ①

忠治が愛した4人の女 (1)       はじめに ①

忠治が愛した4人の女 (1)
      はじめに ①


画像の説明


 国定忠治は、江戸時代の後期に実在した侠客。
博徒として上州から信州一帯で活動し、赤城山南麓を「盗区」として
実質的に支配した人物。


 天保の飢饉で農民を救済した侠客として、講談や映画、新国劇などが
相次いで取り上げ、一躍、国民的なヒーローにのぼりつめた。


 「赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定村や、縄張りを捨て、
可愛い乾分の手前たちとも別れ別れになる首途(かどで)だ・・・」
で知られる、赤城山から落ちていく台詞はいまでも有名だ。


 たかが一介の博徒を、国民的なヒーローにまつりあげたストーリーはこうだ。
飢饉に喘ぐ農民を助けるため、博徒の国定忠治が悪代官を斬る。
当然のこととして大罪を犯した忠治と子分たちは、生まれ育った国定村を追われる。
行き先を失った博徒たちが、赤城の山に立てこもる。
しかし。赤城の山はすでに捕り方たちによって包囲されている。


 このまま衝突をしたら、どちらにも多大な犠牲が出る。
一触即発の緊張が、双方の間に高まっていく。
このとき。義理の親でもある目明しの川田屋惣次が、忠治をたずねてやって来る。
惣次は、忠治の人となりを十分に理解している。
天下のご政道に従ってもらいたいと、法を犯した忠治に迫る。
惣次の苦しい胸の内を察して、忠治もここで縛につく覚悟を固める。


 交渉を聞いていた軍師でもある日光の円蔵が、二人の間を取り持つ。
300人の子分たちが忠治に盃を返す。国定一家はその場で解散を決める。
かくして忠治はただひとり、赤城の山を落ち延びていくことになる。
「赤城の山も今宵を限り、生れ故郷の国定の村や・・・」ではじまる名台詞は、
こうした背景のもとで誕生した。


 だが史実は、すこしばかり異なる。
忠治が生まれたのは、いまから200年前の文化7年(1810)。
佐位郡(さいごおり)国定村の豪農・長岡家の次男坊としてこの世に生まれた。
幼いころの本名は、長岡忠次郎。
貧農の子として生まれたという説もある。
しかしこれは、のちに作られた講談上でのつくり話。


 長岡家は、農民の身分にもかかわらず苗字があった。
由緒をもつ富農であったと考えられている。
鎌倉幕府を滅ぼした新田一族の血を引くとも言われているが、根拠は
明らかにされていない。


 豪農の家に産まれたとはいえ、忠次郎は生まれついての元気者。
その性格がやがて、無宿者の道をあゆませることになる。
この時代。武家においても農家においても、跡目を継ぐのは嫡男と決まっている。
次男や三男の存在は、たんなる保険。
長男が無事に家督を継げば、後に残った次男や三男はただの厄介者。


 当時は土地に縛られていたため、勝手に土地を離れてしまった場合、
公的な身分証明を失い、無宿人と呼ばれる。
生まれついての乱暴者で、跡目を継げなかった農家の次男坊。
忠治は産まれた瞬間から、なぜか、侠客になる道が運命づけられていた。


 人相書きがのこっている。
体重は、二十三貫(およそ86㎏)。身長は五尺五分(152㎝)の短身。
ズングリとした、力士のような体型をしている。
ひげが濃く、胸毛も垂れるように伸びている。
眉は太く濃い。眼玉はギョロとして大きく、色の白い無口な男。


 足利の勤王画家・田崎草雲が、国定忠治に一度だけ偶然に出会っている。
そのときの印象を元に描いたものが、残っている。
現存している国定忠治の、唯一の肖像画だ。
「目つきに凄みがある。虫も殺さないようでいて、人を寒からしむる
凛然たる気のみなぎる真の侠漢なり・・・」と、感想を書いている。


 義に生きたとされている上州の侠客・国定忠治の本当の姿を
残された史実をたどりながら、検証していこう。


(2)へつづく




画像の説明

コメント


認証コード8274

コメントは管理者の承認後に表示されます。

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional